当地草創は不詳、雖も往古より延喜式内小川神社は当社たるの旨が申伝えられているが当神社に所蔵する古文書の中に棟槧と書かれた書状(写真2)があり次の様に記されている。
棟槧
人皇八拾三代
土御門院御宇(第八十三代土御門つちみかど天皇)
 鎌倉三代目
 時之将軍源朝臣實朝公御時代
信濃国内山里二
日本大一大軍神武南方ノ尊諏訪ヨリ移ス(南方尊・諏訪大神の命)
切山小川諏訪大明神(切山 桐山の起因によるものではないか)

今上皇帝天下泰平富作延長
當領大守武軍長久五穀成就
諸人快楽氏子安全
   諸願成就  敬白
  勸請主 佐野村迎場城主 多田目向守嘉秀
建永元年(1206)九月廿九日

同歳鎌倉征夷大将軍ヨリ御幕頭戴仕候
人皇百五代後柏原院御宇(第五十代後柏天皇)
時之将軍義澄公御時代改(足利十一代将軍)
 佐野源左衛門經祐二男
  庄官長沢庄左衛門常祐
時干 永正三歳八月十五日

写真5


と書かれており、

佐野村庄官長沢庄衛門常祐によって室町中期に書き改められているとはいえ、建水元年(1206)といえば丁度源頼家(よりとも)が修禅寺に幽閉(1204)されて源実朝(さねとも)が第三代征夷大将軍となり(1216)権力途上の時代であり以前は不詳ながら佐野村(現白馬村) 迎場城主多田目向守嘉秀によって勧請し開創されている事が判る極めて貴重な文書であると同時に四ヶ庄(現白馬村) 地方とのかかわりを知る事ができ非常に興味深いところである。

 そして寛正二年九月本村小川古山城主小川左衛門によって社殿の再建(棟札―写真5)がされ口碑に天正八年に至り小根山村へ里宮を分祭し当社を奥宮と稱し小根山村の小川神社を里宮と伝う。

 申寅の七年毎に御柱祭を行い例祭の十月一日を足穂祭と唱え四月一日を水分の祭と称して本社より子 の方字神楽岡(資料参照)に神饌殿を設け小川全郷の人が新穀を献備するを例とした。
 従来本村の産土神にして領主小川氏の崇敬も厚く社殿造営を始め宝物等の寄附も数々あり、又社地附近を環繞する流れを小川と称し往古より小川郷と称されこれに起因して小川神社と称されたと伝う。

写真3


 又天保八年、神祇管領吉田家(資料参照)へ願い、
更に小川神社の宣旨(写真3)を受け明治六年四月村社に列し、
その後、祭神引直し願届等 (資料参照)を経て明治四十三年九月一日告示第三九一号以って神饌幣帛料供進指定神社となり
昭和二十一年宗教法人として神社本庁所属神社となる。

昭和21年7月15日法人令による登記、昭和27年12月20日法人法による登記を完了す。