7年に一度、寅年と申年に御柱祭が執り行われる。神楽岡地区から杉の木を四本引き出し、神社の境内に建立する。
24年ほど前までは四本とも祭り当日に曳いて建立していたが、以降は曳いて不足ということもあり、三本は前もって建立し、当日は一本のみ曳いて建立している。
御柱の歴史
御柱祭は普通は「おんばしら」あるいは「御柱祭」(みはしらさい)といわれているが正確には「式年造営」又は「式年遷宮」といった大行事で諏訪大社では寅年と申年の七年目ごとにこの造営が行なわれている。
文献に初めて登場するのは平安時代、桓武天皇の勅命によって諏訪大社の造営が信濃国、一国の大行事となって、以来鎌倉時代まで式年造営が国をあげて諏訪大社の造営に奉仕している事が諏訪社造営帳によってわかると記されている。
まず国司によって造営の切符を国中に配り費用を徴収し国外に出る要路には関所を設けて通行税を、国中の大工や職人は国外の出稼ぎ又はその材料撒出等すべて禁じられて御柱曳きを一本に1000人~2000人の大勢の手によって奉仕され、男子は元服の式を、女子は婚礼の式を挙げる事を禁じて信濃国が総力をあげて諏訪大社の式年造営に当っていたのである。
今日でも御柱祭年に結婚式をあげるのをさける風習が残っているのはここから生れたものである。江戸時代になってこの範囲が縮小されて地元高島藩や諏訪地方全域による氏子の人達によって大行事が引継がれ合せて催し物など加えて奉献され盛大な御柱祭の行事が奉仕される様になって今日に至っているのである。
御柱の謂(いわれ)
独特の神秘的な神事であって一種の霊的な雰囲気すら感じられるこの大行事は一体何んの意味を現わしているのか、これといった定説はない様であるが、鎌倉時代の仏教的の説によれば四無量、即ち慈悲、喜、捨の四つの心の柱であるとされ又室町時代の四王擁護の説によると四王とは四方の鎮護する守護神をいい、持国天(東方)、広目天(西方)、増長天(南方)、多聞天(北方)を指しこの思想を曳いて明神を中心として国を鎮護する意味を現わしているとされている。一方社殿を建て替える意を以って四隅に御柱を曳き建てて奉仕するとも伝えられている。
武内小川神社 (沢之宮)の御柱
建御名方命を祭神とする当小川神社に於ても年代不詳とはいえ総本社である諏訪大社 (資料参照)にならって寅年と申年の七年目ごとに御柱祭の行事がおこなわれていた。
古い日記を熟読して見れば明治の中頃(明治十一年)は祭係(現在の役員の体制よりやや多い様に思われる)といわれる人達によって極、小綺麗な四本の御柱をこれからが資料不足で不詳のところであるが四方鎮護の意を以って境内に直接建てて奉仕していたと考えられる。
そして明治十七年(四月)に至って神楽岡に設けた神饌殿から大勢の氏子の手によって賑やかな御柱祭の行事が行なわれる様になった。又厳粛な祭礼にそって四本の御柱(長さ寅年三十五尺、申年三十三尺)即ち川手区東組一本、 川手区西組一本、川上区一本、桐山区一本の各受持ち区分とし抽籤によって曳行(えいこう)を定めて曳き建てられ奉仕されていたのである。
しかしながら時代の推移とともに激減する氏子数にともない現在では郷の内外の大勢の曳手の人達の応援やさらには同村小根山地に鎮座し兄弟社でもある小川神社の氏子の人達による獅子宮神楽、長持ち行列等の奉献があって、時代にふさわしく賑やかな祭祀が行なわれて奉仕されているのである。
こうして神の御加護を念じつつ絶えながら先人達の鎮守し奉幣してきた遺産を死守しているのである。又この様に老若男女が同じ立場で昔ながらに、曳き建て奉仕するこの尊い文化、そこには遠い父祖の魂と魂がかよい郷が一丸となって団結し里の仲間であるという自覚と誇りがよみがえってくるのである。