小川村指定文化財
延喜式内 小川神社
祭神 健御名方命
由緒
当社は「延喜式」神明帳(907)に記載さる水内郡式内九社の一つなり、
当地草創は不詳なるも1461年(寛正二)九月、古山城主小川左衛門によって再建 現在に至る。
本殿
流造、こけら葺、側面の木彫
間口一間一尺 奥行一間
1951年(昭和26) 指定
大杉
樹高 目測 45m
周囲 7.5m
1979年(昭和54)
小川村教育委員会
式内小川神社の大略
神を崇敬して祭事を行う事は神国である日本においては古来よりの風習であって、神武天皇を鳥見山に祭って以来歴代の朝廷が祭祀を切って、以来国政の鏡とされてきたのである。 聖武天皇(750)の時に神帖を造り天皇の勅命によって全国六十六国の一の宮を定めて信濃国は諏訪神社を一の宮に下命された。
そして醍醐天皇の朝になって『延喜式』(資料参照)神名帳ができて当沢之宮小川神社もそれに列記されており、又『大宝律令』によれば祭政一致、即ち国司(現知事)の職は神祇を祭る事を第一とされており、従って国職に赴けば神名帖に記載されている神社を迎拝し、かつ日を定めて神祇をそれぞれの神社に祭るを例としたのである。
又平安時代になって伝教大師最澄(天台宗の開祖)や弘法大師空海 (真言宗の開祖)らによってそれぞれ仏法を開いて融和につとめ両部習合(神仏の調和を唱える神道)を唱え、やがて大社の近くに寺院や堂を建て神事を司り神社名や祭神名を習合の名稱に改めて権現明神等に唱えた。
その後神官、僧侶らもだんだんと力をつけて政治にまで深くかかわる様になり、武装まで備えて加持祈祷を以って神仏に仕え、又修験者らも加わり勢力をのばして神仏混淆のまま明治の維新に至った。
明治初年太政官布告によって神仏混交が禁じられ、神事はすべて神官の司る事を定めて神祇官を置き神職、諸社の制度を定めて、 社格を官、国、幣、社 (資料参照) そして各町村にそれぞれ村社、無格社を置いて体形を備えた。
そして明治六年北小川村では当小川神社と三島社(後の瀬戸川神社)が村社となり毎年定めた祭日に賑やかな祭祀が行なわれた。
又当時神社関係の調書によれば(北小川)村内での神社数は大、小合せて大字瀬戸川区域内で四十二社大字稲丘区域内が十三社の計五十五社を数え創立年代由緒も不詳ではあったが郷民の祖先累代が鎮守として幾百年の永きにわたり奉幣していたのである。
そうした中、明治四十年県令等に基づいて維持又は一定の規約(写真1)に満たない社は合併又は廃社とする旨の整理が断されて村内では六社即ち小川神社、瀬戸川神社(法地)、古山神社、稲丘神社、瀬戸川皇大神社、 大宮神社(成就)に統合されて現在に至っているのである。
一方元の祭日を忘失し難い信徒、崇敬者の多くは別に当番を定めて一定の場所に集供物を捧げ私察し神酒を受ける慣例など各地で少なくなかったのである。
式内小川神社
●位置 大字瀬戸川字沢之宮一八三一四番地
●祭神 建御名方命(タケミナカタノミコト)
大国主命の御二子で実行力に秀れ非常に敵愾心の強いはげしい英傑の神であったといわれている。
国譲りの神話によれば父大国主命を助けて建御名方命は兄事代主人命(コトシロヌシ)と共に葦の原で中つ国の国造りにあたっていた。ある時天照大神の使いとして再三にわたって国譲りを迫った武将建御雷神(タケミカズチ)と天鳥船命に対し兄事代主命は「恐れおおいこと、この国は天神の御子に献じます」と答えて海に姿を隠した。
一方弟建御名方命「勢力下に治めようとするなら力競べをしよう」と二人の神に挑んだ。 そして建御名方命が建御雷神の手を取ると、その手は冷たく固い氷の柱となって、やがてそれが鋭い剣と変りついに恐れて引きさがった。
次今度は建御雷神が建御名方命の手を取ると若葉のように握りしめて折り曲げた手を放り投げた、というこの「手取り」は御事相撲の由来の話で今の原型とも伝えられている。こうして建御名方命はそのまま逃げて信濃国の諏訪湖で降伏し葦原の中つ国の献上に同意した。 しかし諏訪にはすでに洩矢(もれや) 神という水の地主神が力を伸ばしており、激しい攻防戦の末に地主神を服従を誓わせて、その後下社に祭られている妃神八坂刀売命(ヤサカトメ)と夫婦の神となって諏訪明神として祭られるようになったといわれている。
相殿 事代主命
大国主命の御子で建御名方命の兄であるが性格は非常に温厚で能に秀、時勢とともに推移しながら謙譲順応の君子であったといわれる。
氏子数
351戸 明治8年(1875)現在(瀬戸川西南全域を含む)
(明治41年古山地籍85戸分離して古山神社就属)
256戸 明治42年(1909)現在
200戸 昭和50年(1975)現在 (小川村誌)
55戸 平成16年(2004)現在
21戸 令和4年(2022)現在
御神木及び神紋
御神木大杉:御神木として古来より讃し、昭和54年9月村天然記念物に指定
神紋 梶の葉
崇敬者
大正初期の供進金調書を見れば北安曇郡神城村(現白馬村)111名、北城村(現白馬村) 84名、平村(現大町市) 41名、隣村鬼無里村145名など、多くの村外崇敬者の中でも特に地域的に突出しており、諏訪大明神を勧請 (迎場城主) された佐野村(現白馬村)周辺地域が広くこの様に厚い信仰に永年にわたってささえられている事を知ることができる。