沢之宮 (小川神社)の俳額について

長野郷土史研究会員 関 保男


1.沢之宮の三種の俳額
 沢之宮は小川村瀬戸川字沢之宮にある神社である。小川のもっとも奥に位置しており、文字どおり沢の谷間にあり、水源に近い。 分水神であろうか。桐山地区の氏神で、もと北小川村の村社である。
 この宮に四種の俳額がある、文政二年(1819)のもの二枚(A)、明治十二年(1879)のもの二枚(B)、明治二十四年(1891)のもの二枚(C)の三種である。便宜上A、B、Cとする。

(A) 文政二年(1819)
一面64句と二面72句 計126句
 小さめであるが一番古い、文政二年といえば一茶の晩年であるが、現存の俳額とすれば西山地方ではもっとも古い。
 管見では、北信地方では苅屋原泉徳寺の宝歴十一年の万句合が古く、虫歌観音(天明七年)、長谷観音の三面(天明六年、文化七年、文化十一年)、蚊里田八幡社(寛政七年)、清野風雲庵(文政十四年)、清野離山神社(文政二年)などが知られ(昨十五年千見境宮で文化五年1808〉の俳額を発見した)ているが、それらと並んで古い。当時この地に前句銀付俳額が流行していたことを示すきわめて貴重なものである。近在では旧霊音寺の俳額が文政五年で、これに次いでいる。ちなみに竹生八幡社の額は天保十二年(1841)で、二十二年後のものである。
 内容は前句附である。 前文にあげられている七句の下の句に対して、できるだけいい附句を付けた者(高点者)が賞品や賞金をもらうものである。各句の上にそれぞれ前句が記されているが、はっきりしないものが多いので省略した。 前句附は江戸時代の後半には盛んに行われ、しばく禁止された。
 俳額は、すすけているが文字は比較的よく読める。素朴な作品が多い。 すでにことば遊びも盛んで、「陸奥に隠岐加賀美に向美濃若狭」(六つに起き鏡に向う身の若さ)のような国尽しや、「楠の軍法楢葉桐茂梨子」(楠木の軍法ならばきりもなし)のような植物尽しも見られる。
 また句の題材も、多面的で当時の民俗を写している。
選者は「浮雲五睦」という人物であるが、「小川村誌』には見当らない。俳諧人名辞典の類にも見えないが、当然とりあげなければならない人物である。
 催主の宥順についても不明である。山号があり、「宥」は高山寺の住職の通字なのであるいは高山寺にゆかりのある僧侶と考えられるが、地元の今後の研究に期待する。


(B) 明治十二年(1879)の俳額
 正面にかかげられているもので、応募作5100句のなかから約400句が入選し、記載されている。文字も比較的よく残っている。写真が不備で読めない箇所が多いが、ていねいに読めばかなり読めそうである。
 選者は、岩波其残、月院舍ノ左、小川舍圭月の三人である。いずれも『長野県俳人名大辞典』にのる有名な俳人である。
「献額 四季混題 五千百句選」と表題があり、「合点 天六十一点夏和近司、地四十一点大町やつ女、人三十六点夏和寛重」と、天地人の三位までが巻首に並び、以下百位までの点数と名前がかかげられている。 応募作五千百句は当時としてはかなり大がかりな興行である。投降者は現在の小川村・中条村・信州新町地域の人が中心であるが、有旅・塩生・千見など更級や安曇にも及んでいる。入り花料をとっての興行であったことがわかる。
 以下選者ごとに入選句がある。 末尾の三句は選者の、その前の四句は催主のものだと思われるが、みえないのは残念である。補助は催主の補助で実行委員である。


(C) 明治二十四年(1891)
 句数は約218句である。ほとんど剥落してしまって、読める句は一句もない。わずかに「奉納 選者名月庵桂 明治廿四年辛卯中秋」、「催主当所露月・信月」だけが読める。
(D) 明治十一年(1878) (資料参照)
 巻頭に美しい牡丹の絵(「半遷」の落款)があり、芭蕉の「古池や」の句がある。ついで、「天三十□点北運 地三十三点花顧 人三十一点寿川」の三人の優秀者の名と「百番順号」が並ぶ。 以下入選句があるが、読めない。奉納年月は「明治十一歳戊寅中春」である。(B)の前年の興行である。 二年連続して俳諧興行が行われたのである。残念ながら選者の名は不明である。


2.俳額の選者たち
小川舎圭月
「小川村誌』によると、小川舎圭月は、竹生金剛寺の十四世で、本名西沢義蕃といった。 小林迎祥の高弟だという。安政三年の生まれ、明治三十二年十二月五日没、74歳。 門弟によって碑が建てられている。 北信地方の高名な師匠である。額Bはおそらく圭月を通じて左や其残が招かれたものであろう。
丸山ノ左(へっさ)
 月院舎。はじめ、戸倉の宮本舟山に、のち寺内立左にも俳諧を学んだが、文政三年何丸が浄福寺へ来たときに何丸に入門した。幕末から明治にかけて北信地方の有力な俳人であった。
岩波其残(きざん)
 文化十二年諏訪文出に生まれる。31歳で眼科医の妾みちと恋愛して出奔、家を弟に譲って諸国を修行し一家をなした。 帰郷後、母の実家岩波家(上諏訪清水)をついだ。多芸で諸芸に通じたが特に俳画の実力は全国的にも有名である。 俳画・篆刻・茶道など諸芸に通じた。 明治二十二年曽良の句碑を建立した。明治二十七年没。
明月庵桂(かつら)
 東福寺の生まれで、本名は鹿島桂一郎である。 松代俳壇の重鎮である。 象山と親交がしり、自宅に象山書の「明月庵」の石碑が建てられている。
 桂の俳額は、観音堂・中沢神社・東福寺神社・南方神社などに残っているが、小川にもあったことがわかった。松代の俳壇の勢力がここまで及んでいたのである。